社会保障ってなんだ 第1章 最後のセーフティネット「生活保護」

日本で、社会保障の諸制度が本格的に創設・整備されたのは第2次世界大戦後のことです。敗戦から立ち直り、新しい国づくりを進める中で、戦前に原型を持つ制度も、理念や仕組みが根本的に変革されました。それから80年近い歳月を経て、社会保障制度は人々の暮らしと人生を支える、無くてはならない存在に育っています。

もくじ

首相への挑発状 ~戦争国家から福祉国家への転換~

 第2次世界大戦における日本人将兵や市民らの死亡者・行方不明者は、広島、長崎での被曝を含め300万人以上に上り、空襲等での罹災者は1000万人を超えました。
 「戦争を知らない世代」が大半を占める今、この悲惨さを肌身で感じるのは難しいでしょう。しかし、「東日本大震災」の犠牲者約2万人の、実に150倍を超える墓標に思いを馳せると、戦争という破壊のすさまじさに、少しは実感がわくのではないでしょうか。しかも、天災ではなく、究極の人災です。戦後、日本人の大半は親族・知人を失い、焼け跡にたたずみ、飢餓におびえ、どん底から再出発を期すほかなかったのです。

 この大戦で、英国政府はドイツを「戦争国家」(WarfareState)と呼び、自分たちは「福祉国家」(WelfareState)と名乗りました。戦争に人も金も物も投入する敵国に対し、国民とその生活を大事にする姿勢を示したのです。

 ドイツの攻勢にあえぐ1942年、英国政府が経済学者ウイリアム・ベバリッジに託した「報告書」が公表されました。人類を脅かす「5つの巨悪」(貧困・病気・失業・無知・不潔)に打ち勝つため「公助」(生活保護)や「共助」(社会保険)を整え、教育の拡充で無知を防ぎ、都市計画により不潔な環境を一掃する提案でした。過酷な戦いの最中に、「揺りかごから墓場まで」支えてくれる「福祉国家」の創設を約束する「ベバリッジ報告」は、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」に匹敵するベストセラーになります。ただし、ベバリッジを引き立てた当時の首相ウインストン・チャーチルでさえ社会主義的な政策に反発し、この提案が実るのは労働党政権登場の1940年代半ば以降でした。

 ドイツ、イタリアと同盟を結んだ日本もまた、軍部が権力を一手に握る「戦争国家」でした。無謀極まる戦いが国家と社会を壊滅に陥れました。いったい、何を基軸に、どう立て直しを図ろうとしたのでしょうか。

 解答は、やはり1946(昭和21)年11月の「憲法」公布にあります。「国民主権」「戦争放棄」(平和主義)「基本的人権」を主柱とする理念と規範が「福祉国家」への道筋を教え、切り拓いたのです。もちろん法文と現実にはあまりにも大きな落差がありました。配給制の米の遅配・欠配が相次ぎ、法外な高値のヤミ米が横行し、配給米のみで耐えた裁判官や高校教員が栄養失調で死亡することさえありました。その殺伐たる1950(昭和25)年10月、首相の諮問機関「社会保障制度審議会」は、初の勧告を吉田茂首相に提出しました。その「序説」は、こう語りかけます。

 敗戦の日本は平和と民主主義を看板として立ち上がろうとしているけれども、その前提としての国民の生活はそれに適すべくあまりにも窮乏であり、そのため多数の国民にとっては、この看板さえ見え難く、いわんやそれに向かって歩むことなどは、とてもできそうではないのである。問題は、いかにして彼らに最低の生活を与えるかである。いわゆる人権の尊重も、いわゆるデモクラシーも、この前提がなくては紙の上の空語(そらごと)でしかない

 国によっては、『ゆりかごより墓場まで』すべての生活部面が、この(社会保障)制度によって保障されているとさえ言われる(中略)。要するに貧と病とは是非とも克服されなければならぬが、国民は明らかにその対策を持ち得るのだ

 さらに、こう結んでいます。

 お前のことばは大言(たいげん)にすぎると言うであろう。そうだ。それは私も知っている。実のところ、私は一応かくいうことによって、読者諸君の好奇心をそそりたいのである。そして諸君の批判を挑発したいのである

 前年に発足した社会保障制度審議会を率いたのはマルクス経済学者の大内兵衛でした。会長として委員40数人との論議の末、深い危機感と烈々たる気概を込め、宰相・吉田茂を名指しで挑発しました。勧告本文は、憲法25条(最低生活の保障)を根拠として、「ベバリッジ報告」をモデルに社会保険、国家扶助(生活保護)、公衆衛生・医療、社会福祉の創設・改革策を打ち出しています。

 ちょうど同年制定の新・生活保護法とあいまって、日本の社会保障の歩みは、ここから実質的に始まるのでしょう。それは戦後の国家と社会の歩みに、時に寄り添い、時に衝突し合う物語です。

貧困とは? ~19世紀に英国で始まった「社会調査」~

 「貧しさ」とは、どんな状態なのでしょうか。個々人の感想や判断ではなく、社会的かつ客観的に「貧困」の概念と実態を明確にするのは意外に難しい作業です。

 そのための「社会調査」が19世紀末の英国で始まりました。海運業者で「産業界の船長」を自認するチャールズ・ブースは、首都ロンドンで1886年から大規模な「貧困調査」に取り組みました。健康と命を保てる賃金(当時週給21シリング)を「貧困線」として、それ以下の労働者が全住民の実に3割強に達することを突き止めました。

 同時に、貧困に陥った原因の大半は失業、不規則労働、低賃金等の「雇用の問題」や、病気、多子、不潔な住居等の「環境の問題」であることを解明しました。飲酒や浪費という「習慣の問題」はごく少数派にすぎませんでした。
 次いで、後に製菓業の経営者となるシーボーム・ラウントリーが1899年からヨーク市で、貧困予備群にあたる「第2次貧困線」も設定し、より詳細に貧困実態を掘り起こしました。いずれも、これ以下では生命の危機を引き起こす「絶対的貧困」による線引きでした。

最後のセーフティネット「生活保護」 ~戦後に制定された生活保護法~

 第2次世界大戦での敗戦後、日本が直面したのは失業・食料不足・住宅難・悪性インフレーションの3重、4重苦で、まさに「絶対的貧困」が列島をおおいました。

 1946(昭和21)年、急きょ旧・生活保護法が制定されました。それまでは1929(昭和4)年制定の「救護法」で、ごく一部の貧民を救済した程度でした。ようやく本格的な救貧制度が導入されたのですが、保護を拒否された際や保護内容に不満がある場合の「不服申し立て権」が明記されない等の重大な欠点が残されました。

 このため1950(昭和25)年、全面改正の新・生活保護法が成立し、現在も続く「4原理」と「4原則」が主柱にされました。4原理とは、国家の責任で、思想・宗教等に関係なく、困窮の理由も問わず無差別に、最低生活を保障する、ただし、最低限度の生活維持に不足する分を補うこと。4原則は「申請保護」(緊急時を除いて申請を条件に)「基準及び程度」(年齢・家族構成・居住地等に応じ)「必要即応」(個別のニーズに応じ)「世帯単位」で実施されます。
生活保護制度の基本原理と原則

4つの原理
・国家責任(第1条)
・無差別平等(第2条)
・最低生活保障(第3条)
・保護の補足性(第4条) ※不足分を補う

4つの原則
・申請保護(緊急の場合を除く)
・基準及び程度(年齢・性別・世帯構成・居住地等に応じ)
・必要即応(個別のニーズに応じ、実施期間に裁量あり)
・世帯単位(個人でなく世帯対象)

 翌51年度で被保護者は204.7万人、総人口に占める保護率2.42%。もちろん困窮者の一部でしかありません。ちなみに敗戦時の1945年度で救護法による救護者はわずか9.3万人、ただし、軍人の遺族対象の軍事扶助は298万人(引用・日本社会事業大学救貧制度研究会編「日本の救貧制度」)。

 生活保護法の施行により、やっと一般貧困者の救済が始まりましたが、被保護者に必要な生活費を定める「生活保護基準」に当時の考え方がうかがえます。

 まず「マーケットバスケット方式」が採用されました(1948~60年度)。バスケット(買い物カゴ)を持ってマーケット(市場)へ出かけ、最低限度の生活必需品をそろえる。そんな発想と方法で援助額を決めたのです。半世紀前、第2次貧困線を設定したあのラウントリーが用いた手法です。
 次いで、もっと科学的な「エンゲル係数方式」に切り換えられました(1961~64年度)。家計費に占める飲食費の割合等を基準に最低限度の援助額を割り出す方式です。収入が少ないほど飲食費の比率は高くなります。敗戦直後の1946年のエンゲル係数は実に66.4%、食べるだけで精一杯の窮状がよく分かります。保護基準切り替えの高度経済成長期の1960年代前半でも38%台でした(ちなみに2019年で25.7%、いずれも2人以上世帯の全国平均、総務省家計調査)。ただし、両方式ともに「絶対的な貧困」概念で最低生活を支える基本は同じでした。

1年パンツ1枚 ~「人間裁判」と呼ばれた朝日訴訟~

 新憲法には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(25条)とあります。この「健康で文化的」をめぐる争いの代表例が「朝日訴訟」です。原告(朝日茂)は結核で国立岡山療養所に生活保護を受けながら入院中、実兄からの仕送りが始まったのを理由に月額600円の日用品費支給まで停止されました。その日用品費等は「あまりにも低額で憲法と生活保護法に反する」と訴えました。
 当時の日用品費600円の内訳は、2年間で肌着1枚、1年間でパンツ1枚、タオル2枚、下駄(げた)1足、湯飲み1個などとあります。人間に値する生活とは何かを問うこの訴訟が「人間裁判」と呼ばれたのも無理はありません。


【画像】朝日訴訟朝日訴訟


 第1審は原告勝訴(1960年・東京地裁)、第2審は敗訴(63年・東京高裁)、上告中に朝日氏死去、最高裁は養子夫妻の訴訟継続を認めず実質的に敗訴(67年)。ただし、最高裁は裁判官の意見にあたる「傍論」(ぼうろん)で、憲法25条は「国の責務として宣言したにとどまり、直接個々の国民に対して具体的権利を賦与(付与)したものではない」との見解を示しました。

 憲法25条は、最高裁の示した政治的・道義的な目標と指針を示す「プログラム規定」なのか、条文通り国民がその「権利を有する」のか。生活保護を初め社会保障全般で国・自治体と国民・市民との間で、さまざまな対立、訴訟が相次ぎ、今も残る課題です。

水と番茶の違い ~「絶対的な貧困」から「相対的な貧困」へ~

 紅茶を飲むのは、英国人にとって自然なことで、それさえ奪われるのは貧困です。

 英国の貧困研究の大家・ピーター・タウンゼントは彼の「相対的(権利)剥奪(はくだつ)」の考え方を、このように説明しました。日本流に言えば、のどが渇いても番茶さえなく、水で我慢するのは「相対的な貧困」ということになります。

 生活保護基準は「マーケットバスケット方式」「エンゲル係数方式」を経て、1965(昭和40)年、この相対的な貧困概念の「格差縮小方式」が採用されました(~83年度)。一般世帯と被保護世帯との格差を埋めるため、政府見通しの個人消費支出の対前年度比伸び率に格差縮小分が上乗せされました。一般世帯を100%として被保護世帯の消費支出は80年度にはほぼ60%に漕ぎつけ、84年度以降は、一般国民の消費支出の伸びを基本に調整を図る「水準均衡方式」が実施されています。

【画像】生活扶助基準の例(2018年10月時点)生活扶助基準の例(2018年10月時点)

冷蔵庫やクーラーは贅沢品? ~生活保障の「最低限度」とは~

 先進諸国の生活保護制度(公的扶助)の共通点は、

①最低限度の生活保障
②所得・資産の資力調査(MEAMS TEST)実施
③費用は全額租税

の3点といえます。

 最低限度の保障は「ナショナル・ミニマム」とも呼ばれます。その望ましい水準は、豊かな社会ではむしろ「基本的保障」と呼ぶ方が適切なのでしょう。生活保護制度もその水準を模索してきました。
「生活扶助」と呼ぶ生活費は飲食費や衣服費だけではありません。

 例えば耐久消費財はどう扱うのか。1966年、大阪府八尾市で乳児を抱えた母親が保護の申請をしたところ、ミルクを冷やすために買った電気冷蔵庫の処分が条件と言われ、母子心中した事件が起きました。 電気冷蔵庫と電話の条件付き保有は翌67年、カラーテレビの保有は72年などと、次第に認められるようになりました。
 電化製品等の保有は、その居住地域で7割程度の普及率がめどにされます。しかし、1994年には埼玉県桶川市で、79歳の女性がクーラー保有を理由に「保護打ち切り」を通告され、クーラーを外して脱水症状で倒れた事例がありました。今もマイカーは原則認められませんが、重度障害者の外出や過疎地域の通院患者には必需品です。

 「教育扶助」はあっても、高校進学は長い間、特例扱いでした。2005年度から就労援助の「生業(せいぎょう)扶助」に含めて公立高校で学ぶ費用が支給され始めました。高校を卒業しなければ就職先を見つけるのも難しい時代だからです。

 生活保護は「サービス付きの現金給付」と言われます。相手の生活状態に応じたきめ細かな保護と自立への支援が常に問われます。

 一方、生活保護を受ける際には「資力調査」が伴います。「生活困窮者がすべての資産・能力等を活用したうえ、なお不足する分を補う」(保護の補足性)ための調査ですが、厳しすぎると、申請をためらったり、困窮者が拒否されたりする「漏救(ろうきゅう)」が多発します。生活保護基準以下の低所得者層をどの程度「捕捉」しているのか。日本の捕捉率は国際的に極めて低いとされます。[橘木俊詔・浦川邦夫(2006年)では生活保護制度は保護基準未満の推計16.3%~19.7%の補足率、小川宏(2000年)では同9.8%にすぎません。]

 逆に資力調査が緩やかにすぎると濫り(みだり)に保護する「濫救(らんきゅう)」を引き起こします。2018年度で不正受給は3万7287件、140億382万円。最多は収入の無申告、次いで各種年金の無申告でした(生活保護法施行事務監査報告)。全受給世帯数に占める不正件数の割合は2.2%程度、保護費総額に占める不正額の割合は0.4%程度にとどまりますが、租税を財源にする生活保護にとって不正の防止は制度のかなめに違いありません。

従来の社会保障制度では支えきれない ~増加してきた生活保護受給者~

 暮らしを支えるさまざまな社会保障制度が整えられたにもかかわらず、この「最後のセーフティネット」に頼る人々はいっこうに減りません。被保護人員は2018(平成30)年で209万6838人(月平均)、総人口に占める保護率1.66%。生活保護費は同年度で3兆6062億円、これを国で4分の3、地方で4分の1を負担しています。

【画像】被保護人員と保護率の推移被保護人員と保護率の推移


 被保護人員は好況期の1985(昭和60)年度以降は減少あるいは横ばいを続けましたが、「バブル経済」の崩壊と不況を背景に90年代後半から増加に転じました。
 2008(平成20)年の冬、東京・日比谷公園にNPOや労組が設けた「年越し派遣村」は、食事と寝場所を求める失業者、ホームレスの人たちであふれました。とりわけ派遣先の職場で仕事を失うと、宿舎からも追い出される“派遣切り”の過酷さが際立ちました。
 2020年2月頃から始まった新型コロナウイルスによる倒産・廃業・合理化でも、失業・雇い止めが多発し、やはり職場も宿舎も失う非正規労働者が増えました。

 被保護世帯の類型では、2018年度の統計で65歳以上の高齢者が全体の54.1%、傷病・障害者25.3%、母子5.3%と、貧困に陥りやすい世帯が並びます。しかし、「その他」と区分けされる世帯が24万8265人(15.2%)に上り、過去10年間で倍増しました。つまり働けるはずの年齢層の受給者が目立つのです。その一因は、待遇が劣悪で、身分も極めて不安定な非正規労働者の急増が背景にあると推定されます。

 生活保護に至る前の段階から手を差し伸べる「生活困窮者自立支援法」が2015年度施行され、18年には改正・強化されました。ワンストップ相談窓口の開設、個別の自立支援計画づくり、住居確保給付金、就労準備事業や就労訓練事業などが実施されています。一見「豊かな社会」に深く広がる貧富の差をいかに埋めるか、従来の社会保障諸制度では支えきれない現実に直面しています。

執筆:宮武 剛
毎日新聞・論説副委員長から埼玉県立大学教授、目白大学大学院教授を経て学校法人「日本リハビリテーション学舎」理事長。社会保障を専門に30年以上、国内外の医療・介護・福祉の現場を取材してきた。